ムシャホシチャバネセセリとは何者? 台湾蝶撮影記2

 
 台湾滞在5日目に、今回の目標の一つである各種イチモンジ・シロタテハ・ホウライコムラサキなどの台湾の特徴あるタテハ類の撮影を計画しました。
 台湾の代表的観光地として有名でもあり、蝶好きにはタテハ類の名所として知られている太魯閣渓谷に向かって、林さんのご自宅を早朝1時に出発。
 約5時間車を走らせて、6時ごろには太魯閣渓谷の入り口に着きました。
 公共駐車場に車を止めて、車内で仮眠をとったあと、渓谷に入りました。
 何度訪れても、高くそびえる岩の殿堂を縫うように走る道路から展開する圧倒的な景色に目を奪われます。
 ホッポアゲハが吸水しているかもしれないという水場のそばに車を止めて、あたりを見まわしますが、それらしい蝶の姿は確認できませんでした。
 ふと、湿ったところをよく見ると、ちょうど日本のホシチャバネセセリと同じぐらいの小さく翅の細めなセセリチョウが数頭、吸水していました。
 
 ん?という感じで、林さんがその小さなセセリを見るや、大きな声で「オープン!オープン!」と叫び始めました。
 どうやら、翅を開いたところを確認したい様子です。
 そのうちの一頭が、林さんの「オープン!」の掛け声に答えたものか、半開きにしました。
 「おお!間違いない!こいつはスペシャルなセセリチョウだ!」といって林さんは、興奮しています。
 林さんは、上からカメラを構えたかと思うと、腹ばいになったり、横向きになったりしてあらゆる角度から 猛烈な勢いで、写真を撮っていました。
 
 私は、そもそも狙いが台湾の珍蝶タテハ類なので、そんなチビのあまり目立たないセセリなど、撮影意欲もわかないのですが、林さんがそれほど入れ込んで撮影をしているのを見て、念のため証拠写真ぐらいは撮っておこうぐらいの気分で何枚か撮影をしました。
 
 林さんが言うには、これはムシャホシチャバネセセリという、まだ標本が世界に3つしかない種類で、林さん自身は、今回で3回目の撮影だとのこと。さらに、付け加えて、この蝶をこれまで撮影したことがある人間は、私とあなたの二人だけだと言いました。
 げげ。そんな大げさな話なんですか?
 私は、つい3年前のオオミヤマシロチョウのことを思い出してしまいましたが、今回の蝶はそれにまさる貴重なもののようです。
 何となくキツネにつままれたような気持ちでした。
 
このように、翅を閉じている小さな姿は、まことに目立たない、地味な蝶で、
日本のホシチャバネセセリ同様、飛び方はめまぐるしい速さで、よほど気を付けていないと蝶が飛んでいることにさえ気が付かないのではないかと思われます。
 
 
 
参考までに、思源唖口で撮影したバンダイホシチャバネセセリ ↓
バンダイホシチャバネセセリ♂ 非常に新鮮な個体。
ムシャホシチャバネセセリ♂に比べて、前翅表、後翅裏のいずれも白紋列が弱く途切れがちになる。
♂は前翅中室の白斑が特に不明瞭。
 
以下、ムシャホシチャバネセセリ
飛び写真も撮れていた。
前翅にくっきりと白斑が出ている。
 
 
 
単なる証拠写真のつもりが、林さんの話を聞いて急遽、マクロレンズに交換。
私もほとんど腹ばいになって、チョウ目線で撮影しました。
(クリックで拡大↑)
 
 林さんによると、バンダイホシチャバネセセリとムシャホシチャバネセセリの2種が本当に別種かどうかを判断するには、まだまだ比較検討するための資料が不足だそうです。
 
 というのも、林さんの「台湾賞蝶365」にもあるように、バンダイホシチャバネセセリを多数観察すればするほど、新種記載の時にムシャホシチャバネセセリの識別点として指摘されていた、前翅の白紋列の4・5番目が外へズレるという特徴は、バンダイホシチャバネの中にも程度の差はあるものの個体差が大きく、この特徴を種同定の唯一の識別点とすることは妥当なのか?と考えたということです。
 別の図鑑「台湾蝴蝶図鑑」徐堉峰・著の場合も、バンダイとムシャの識別点として、前翅の白紋列の配列パターンではなく、前後翅裏の斑紋の明瞭度をあげています。
 
 しかしそれは、バンダイとムシャの種としての違いと見なすよりは、ムシャと言われてきた3頭の標本も含め、過去2回(今回で3回目)の撮影で観察できた範囲で言えば、バンダイの低標高型とでもいうべき種内の別型ではないかというのが、林さんの考えです。
 
 その根拠のひとつとして、バンダイはおおよそ標高2,000m(例外的に1500mほどの発生地があるが、生息地の中心は2000m前後)以上の場所で観察されているのに対し、ムシャの3つの標本の採集地点、および3例の撮影地点がすべて標高1300m以下であることから、バンダイホシチャバネは高山型、ムシャと言われているものはバンダイの低山型ではないかというわけです。
 
 こうしたことに関連して、林さんが「台湾蝴蝶大図鑑」を書くにあたって、なぜムシャチャバネセセリという個体を掲載したのか、そのあたりの経緯を、林さんに詳しく伺ってみました。

 蝶採集業者のある人物が霧社近郊(標高約1300m)でバンダイとは少々違う♂2頭を三角紙標本の中から見つけたというのが事の発端ですですが、これを入手した村山修一氏と下野谷豊一氏が、バンダイとは違う斑紋パターンだというので、新種記載をし、この個体をムシャホシチャバネセセリと命名したようです。
最近まで、ムシャどころかバンダイも非常な稀種とされていて、得難い蝶だったようですが、林さんは高地帯でバンダイの写真を何度か撮影されたそうです。
 そして、2010年・宜蘭縣四季村(標高1100m)で、バンダイの♂にしては妙に斑紋のはっきりした、バンダイ♀のような個体を1頭採集したそうです。
 バンダイに似ているが、普通バンダイは2000mを越える場所で見つかるのだが、なぜこんな低い場所で見つかったのか不思議だったそうです。
 林さんは、図鑑の共著者である蘇錦平氏と採集した♂についていろいろ討論した結果、これはやはりバンダイではなく村山氏が記載したムシャではないかと結論したそうです。
 
その理由は、
1.得られた場所の標高がバンダイの生息域ではなく、ムシャが採集されたという地点と同じ低標高地であったこと。
2.ムシャの特徴とされている♂前翅の斑紋列は、個体変異が大きく、ムシャの模式標本に似た4つ目が外側にズレるという個体も散見されることから、それを主要な識別点と見なすことは有効ではないと判断したこと。
3.むしろ裏面後翅の黄紋が明確に出ること、♂の表翅の斑紋が標準的なバンダイ♂とは異なり、バンダイ♀に酷似するという点が、模式標本と特異的に共通すると結論したこと。
 
この3つの理由から、ムシャとして図鑑に掲載することにしたそうです。(2013年)

 その後、林さんは従来希少とされていたバンダイがそれほど少ない種ではないことがわかり、その中で得た結論は、
 林さんが採集し、蘇氏と討論して判断したムシャの個体というのは、結論を出すにはまだ資料が十分でないために、保留しておく。
 そして、あくまでも仮定の話だが、という前提で、現在まで得られた知識では次のことが言えるのではないか。
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1.ムシャの模式標本は、こと前翅斑紋列に関してはバンダイの単なる過剰変異の個体である可能性を否定できない。
 
2.バンダイには、生息地によって発紋の傾向が異なる二つのタイプがある。
 
3.一つは、裏面後翅が下記の4に比べて黄紋が明瞭に出て、翅表の白紋が明瞭に出る標高1300以下にみられる個体群(原記載のムシャのホロタイプ標本を含む・仮に低山型と呼びたい)
 
4.もう一つは、中には3のようなタイプも混じるが、圧倒的大多数は裏面後翅の黄紋も、翅表の白紋も不明瞭な2000m以上にみられる個体群(仮に高山型と呼ぶ)
 
5.模式標本の♂前翅の斑紋列の比較では、それまでムシャと見なしてきた個体(含:写真画像)と模式標本との相違の有意差は見いだせても、新種として報告された個体が単なるバンダイの特異な変異個体である可能性を否定できず、そもそもムシャという種類自体が別種と断定できるかどうかの判断にはなりえない。
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ということでした。
 林さんが、なぜ模式標本が単なる過剰斑紋個体である可能性を否定できないと考えているのか尋ねると、
ムシャという種類が本当に実在するとすれば、従来まで採集された個体が、1943年以来記載された2頭だけというのは非常に不自然で、おそらく近似種の類推から、幼虫期はイネ科を食するものと思われるが、台湾の特殊な環境に生育する特殊/希少な植物を食べているというなら別として、イネ科のような汎性の植物を利用する昆虫がそれほど数が少ないはずがない、というのが最大の理由だということです。
 希少性ということで言えば、2017年、40年振りに再発見されたアトキバネセセリの場合、近似種類は、多くが森林性の草本または広葉樹を食草としていることから、台湾の極めて限定的な分布をする植物を利用している可能性が高く、イネ科を利用すると類推されるホシチャバネセセリ類と同列に論じることはできないのではないかということです。
 
 そもそもこうした疑問を生じさせているムシャホシチャの原記載について調べてみると、その記載自体の信用性にも、実はいろいろ問題があるようです。
原記載をされた村山修一氏と下野谷豊一氏については、黒沢良彦氏が二人の新種記載、新亜種記載の姿勢に強い疑問を投げかけています。1個または数個の標本を持って、片っ端から新種やら新亜種を記載していくその手法はとても信用できないとしたものです。(蝶と蛾 Vol.23 1973年)
参考までに、その論文は次のようなものです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/lepid/23/3-4/23_KJ00006596820/_pdf

 もし黒沢氏の批判しているようなことが、ムシャホシチャの新種記載にもあったとすれば、
原記載のタイプ標本の斑紋を照合しながら類似個体の斑紋変異を調べてみても、それが単なる過剰斑紋個体だった場合は、結果として模式標本の2頭以外にムシャホシチャと言える蝶はいなかった、という当然の結論を得られるだけかもしれません。

 図鑑出版の後に出版した「台湾賞蝶365 秋・冬」(2015年)では、台湾産蝶類リストにあるものとして巻末の付録にムシャの項は設けたものの、さらに今後の資料収集の結論を待ちたい、としたということです。
 
  これと似たような例が台湾にはあり、1990年に新種記載された魑魅キマダラセセリは、ホリシャキマダラセセリの高山型であるというのが、林さんの長年のフィールドワークによって明らかにされつつあります。
 
 ムシャホシチャバネセセリが文字通りの別種か、それともバンダイホシチャバネセセリの低山型なのかは別として、この超希少タイプ(型)の蝶の生態写真を撮影した二人目の人間になったというのは、実にうれしいことで、台湾の神様には感謝しても感謝しきれない気持ちです。