盛夏 3 - オオゴマシジミ -

 この数年、オオゴマシジミとはご無沙汰でした。
この蝶に会うには、なにせ体力が必要です。食草が多くの場合、急峻なV字谷の雪崩斜面に生えるため、車を降りてから、渓谷の奥深く入って、時には藪漕ぎをしなくてはならないことも。おまけに、一年中で最も暑い時期に出てきます。
 体力ガタ落ちのロージンには大変きついです。泣;

 先日、上高地に行きがてら、某峠に立ち寄ってみたところ、ここはオオゴマシジミが如何にも沢山いそうな場所に見えました。舗装道路わきに食草がわんさか生えていて、これなら車横付けで撮影できるんだろうな。

 宮城県にオオゴマはいません。かなり古い文献に二口渓谷で記録があるようですが、その後誰も追認できた人はないということです。同じ峠の山形県側では10年ほど前までは生息していたそうですが、今ではやはり姿を消したとか。月山の渓谷には、今も棲息地が点在していますが、近年どこもその数を減らして、私が出かけた某沢では炎天下、3日通って1頭目撃しただけでした。写真は証拠写真レベルのものだけ。泣;

 今回は、有名な岩手の胆沢川源流の棲息地へ出かけましたが、平日だというのに関東ナンバーの車がいました。その車の人物は3日がかりで採集に来ているのだといい、仲間の一人は、一昨年はここで100頭採った、昨年は30数頭採った、今回はまだ20頭しか採っていない。今年は少ない。などと話していました。
 100頭という、そのべら棒な数に、私はあっけにとられました。
 同じ場所の同じ蝶を、そんなに採って一体どうするのでしょうか。標本箱にそれを全部並べて鑑賞するのが楽しいというなら、その方のシンケーは、どこか壊れているとしか思えませんし、標本を売るためだというならこれは許しがたい行為だと思います。
 それが希少種だから、あるいは、採集行為によって個体群の存続が危機にさらされるから、とかいう問題ではありません。人間以外の生命に対するモラルの問題であり、自然と人間の関係における倫理の問題です。
 つまり、生命に対する感受性の著しい摩耗、ということが困ったことだと思うのです。

 採集をする人は、みんなこんな人ばかりではない。もっと節度を持って自分の趣味を楽しめばいいのだ、という主張もあるでしょう。
 しかし、そもそもシュミとしての昆虫採集というのは、己の楽しみのために他の命を奪う(単なる趣味ではなくガクモンの喜びのためでもいいですが)という行動自体が原理的に反倫理行為なのであって、そのことに無自覚な学者も、常軌を逸したコレクターも、結局はみな同じ穴の中にいるのではないでしょうか。
 自分の愉悦・快楽の行為でも、カガクのための崇高な行為でも、そうした人の楽しみや営為が、物言わぬ生命(人間のアイデンティティーのルーツであり、生物的祖先たち)の多くの殺戮の上に可能となっているのだという、自然に対する罪悪感や畏れなしにおこなうことは、一層モラルを逸脱する行為であると私は考えます。

 誤解してほしくないのですが、ブログ主は、採集や標本作成を全否定しているのではありません。
 趣味であれ、学問であれ、人が行為すること、それが一体だれのためなのか(それが他者や社会であると勘違いすることが多いですが)、自分にとってどんな意味(意義ではなく)があるのか、常に真摯に、己の心に深く目と耳を澄ませて問い続けること。それが必要なすべてではないかと私には思われます。